ハスラー2は名作

特筆すべきはおっさんのかっこ悪さなんですよ。おっさん格好つけて「俺は人を見る目がある」とかいって分かった風な生き方をしてるんですよ。そんな人生がイージーモードに入ったおっさんが,フトしたきっかけで現場に入るんですが,何度となくシビアな現実を味わってばつの悪い思いをするんですね。昔取った杵柄が通じないぞとなる訳です。
そうした,ぬるま湯につかったおっさんがノコノコとむやみに危険な領域に踏み込むうちに,とうとうある日,完膚無きまでに叩きのめされて尻の毛までむしられるんですよ。


おっさんは悔しい。ええかっこしてきた若者のまえで泣かされて恥ずかしい。昔すごかったであろうおっさんが現実を見せつけられる姿は残酷です。でもおっさんはそこで活きた世界に向き合いうことで,戦う楽しさを取り戻してしまう。ヒリヒリした空気の中で生きる喜びを求めるようになってしまうんですね。こうなると,むしろおっさんは無鉄砲な若者に戻ってしまう。このおっさんの復帰ぶりが爽快です。最後におっさんは低周波で高らかに叫びます。俺はカムバックしたぞ!

これは世の中のおっさんには堪らなく元気が出る映画なんじゃなかろうか。

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2011/0528/412972.htm?o=2

最近になってあのときのことを思い出すのは、子供が娘であることも影響しているのだと思います。私は娘にもキチンと教育を受けさせ、仕事を持って欲しいと思っています。が、この子が将来どういう風に育ち、そしてどんな結婚をするのか、と考えたとき、ふとあのときにキャリアと愛に揺れた(なんか今の年になって言うと恥ずかしいですが)苦しみが蘇ってくるのです。
私のように男も女もなく平等だ、と育てても結局はかえって本人を悩ませてしまうことになるのではないか、と思ったりもします。
かといって女には学問もキャリアもいらない、という教育をするつもりにも、いざとなったらそれを手放すことも必要、と教えるつもりにもなれませんが。

ある女性が恋人の男性から結婚するのであれば,自分のキャリアをあきらめるように言われたというそういう話なんですね。現在はその男性とも結婚していてその当時を回顧した感想を上に引用しました。
教育について考えさせられる内容です。男女は平等であるべきという一般論は大切なのですが,結婚かキャリアかという判断を迫られている当事者にとっては何の役にも立ちません。その人の来歴はその人固有で,一般論はそうした文脈を無視したものだからです。結局のところ,ある人が生きるにあたってなされる個々の判断は当事者が下すしかない。
そうは言っても世間というのは一般論で動くので,自分の判断を下してそれを正当化しようとするのであれば,あるいは正当化しないという覚悟をするのであれば,一般論を知っておくことは重要と思います。教育ができる,あるいはするべきなのは精々そこまでだと思いました。

年末ということで時間について考えると,赤毛のアンの印象に残るシーンが思い出されます。

自分の一番の支持者であったかい人が亡くなってしまった。それは悲しいショックな出来事なのだけど,喪失感に捕らわれていたアンも徐々に日常性を取り戻していきます。そうした中でアンがふとしたことで笑って,その後に泣いてしまうのですね。理由を聞くと,亡くなった彼のことを思うと今脳天気に笑っている自分が彼に対して申し訳ないのだと答えます(僕の記憶のなかでは・・・)。

確か,これに応えて誰かがアンが生きることが故人への供養になるとかなんとかっていう話に繋がるのですが,結局は生きている人の論理に過ぎないような気がするので納得はできないのです。

現実(それから時間)というのは無意味でそして残酷です。私の希望や考えとは無関係に歯車が廻っていくだけです。大切な人との別離などを経験する度にこうした現実を目の当たりにせざるを得なくなって,私は困惑して右往左往してしまう。これは勿論不快なことではあるのだけれども,それでも勝手な意味づけだけはしたくないなと思います。その位なら不快なままでいる方がずっと良い。

auggie wren's christmas story

http://youtu.be/Ijq9RkX4VVs

亡くなった妻の単なる写真など、作家の家に何十枚もある筈だ。それら何十枚もの写真の中の妻は、当然のこととして撮られていることを意識し、夫に見られるかもしれないことを承知したポーズをとっている。だがオーギーの写真の中の妻は通行人だ。世界の住人そのものなのだ。自らが写真に撮られているとは考えていないし、ましてやそれを夫が目に留めるなどとは夢想だにしていない。「だからこそ」小説家は失った妻のリアルな姿をそこに見出し、「だからこそ」喪失の感情が改めて横溢する。単に自分の記憶の中に在るのではない、「世界そのもの」の中でかつて呼吸し本当に生きていた妻。その妻が今はもういないのだ。

http://www.amazon.co.jp/review/R2TJPBN5G5YTF6/ref=cm_cr_rdp_perm


これから田中みな実と結婚するために,彼氏として婚姻届を
書きながら二人の思い出を淡々と語るというネタを本人の前
で披露する向さん。エピソードは事実を詳細にわたって調べ
ています。

勝手に思い出を共有される恐怖に唖然とする田中アナ。


こんな凶悪なネタ,
当然会場にいる誰もがどん引きなんですが・・・


http://youtu.be/2nrk2AH4hx8

メルギブソンでリメイク希望 - 恋はデジャブ

恋はデジャ・ブ [DVD]

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ビルマーレイ演ずる皮肉屋のキャスターが,取材に行った田舎町で1日を過ごしたところ,その日から抜け出せなくなってしまいます。時間が進まなくなってしまった主人公は毎朝まったく同じ台詞のラジオを聞いて目覚めます。時間が進まなくなってしまったとはいっても,主人公の記憶はあるので時間が進まなくなってしまったことに戸惑います。
どんな一日を過ごそうが朝になればすべての所行がリセットしてしまうので,どんなに楽しいこともただただむなしいだけです。女性と仲良くなっても次の日には忘れ去られてしまうし,お金を稼いでも次の日には無一文になってしまいます。こうした空しさに耐えきれなくなった主人公はあらゆる手段で死のうとします。ビルから飛び降りたり,崖から転落したり。その瞬間にはおそらく死ぬのですが,それさえもリセットされ,また同じ台詞のラジオを聞きながら唐突に目覚めます。
次第に主人公は見知らぬ他人に目を向けるようになります。それまでは通行人でしかなかった人達の話を聞き,人生に深く関わるようになります。段々と彼らを楽しませたり,感動させることに没頭します。ようやく目的を見出した彼は次第に学び,苦しい時間のなかで生きる糧を得るようになります。
私たちはこの映画の状況とは逆の立場ですよね。時間が過ぎ去ってしまうことにいつも困っている。もっと時間があれば・・・とか思っている訳ですが,結局のところ利己主義だったり自分の中にしか楽しみを見出せない人はたとえ永遠に時間があっても有意義に時間を使うことはできない。ということを言っているんだと思いますね。


説教くさいかなというとこはあるし,実際後半は主人公が聖人くさくなりますが,そうなるまでに,主人公は何回も自殺してるんですよね。だから元々自分の外側に楽しみを見いだせない人は,何回か死なないと変われないんじゃないのかなぁと思うところがありました。あとビルマーレイだから聖人ぽくなっても嫌みというか押しつけがましさがない印象になったけれども,例えばメルギブソンとかだったら,カリスマでまち一つくらいは完全にマインドコントロールできそうな聖人になったんじゃないのかなぁと思ったりもしましたよ。