私たちはなぜ狂わずにいるのか

面白い本を読んだのでまとめてみました。著者は精神科のお医者さんです。著者自身の患者さんとの体験を科学的に推論した結果が簡潔にまとめられていました。そこいらの似非カウンセラーの話なんかよりもよっぽど興味深い仮説が出されていると思った。

私たちはなぜ狂わずにいるのか (新潮OH!文庫)

私たちはなぜ狂わずにいるのか (新潮OH!文庫)

  1. なぜ私達は狂気の物語にひきつけられるのか。ある程度共有できる部分があるからだ。
  2. 精神病の人が語る,狂気の物語は突飛ではあっても紋切り型で陳腐なものが多い。それは語る人の心情を暫定的に言語化しているだけだからだ(患者自身が語る際に重視しているのは内容ではなく,心情の比喩としての部分である)。それを信じているような言動をするのは,(他人だけでなく自分の)言語化した内容に操られやすいということを示しているのであって,患者が語る狂気の物語をその患者が実際に体験しているかどうかというのはまた別。筆者はそうではないと思っている。
  3. 臨床的な異常,たとえば過度覚醒などは,睡眠が浅かったりするのでその結果として妄想を招くことがあるのかもしれないが,小説家などが語る精神病者の異常な意識体験は外側が勝手にあてはめたことに過ぎないのだと思う(意識体験をあてはめて理解することの困難さは,コウモリの心を理解するには,人間としての自分がコウモリになった場合の意識経験ではなくて,コウモリとしての意識経験をしないといけない点にある)。
  4. だから精神科医として治療という観点から,狂気の物語を字義通りに理解しても意味がないといえる。
  5. 精神病患者は言い知れぬ不安や苦悩に苛まれており,そうしたネガティブな心情を外側に伝え,言語化するための苦肉の策として荒唐無稽な物語を語る。彼らは狂気を語らざるを得ない事情にある。したがって,内容を字義通りに理解するのではなく,その背景となる不安や苦悩を知ることが大切。
  6. 語ることの危険性みたいなものもあるので気をつけて。語り手が自分が言語化した部分に囚われてしまい(語った内容の記憶がその後も強く残って,その内容を頻繁に思い出すということかな?),それをより強化してしまうことがあるので。
  7. 反響言語とか反響動作といった行動がある。これは相手の言語や動作をそっくりまねること。これをやられると,精神科医はほとんど患者とやりとりができない(「サッカーボールのほうがまし」らしい)。この状態にいる場合よりは狂気の物語を語ることは,コミュニケーションを成立させることができる点からも精神科医にとってはありがたい。

2以降が特に面白いと思った。語った内容ではなく,なぜそういうことを語ったのかという個人の背景に目を向けた点が興味深い。そういう区別をとても新しいと思ったのですけども,そういう点を新しいと思った理由としては,僕は普段そういう区別をしない(語った内容とその人の心理的な体験が対応していると思っている)からだと思った。例えば,とっぴな心理的な体験をしていなくても,聞く側が勝手にした解釈を語ったことが話し手に暗示として働いた結果,とっぴなことが語られえるのかもしれない。こういう状況でとっぴなことを語るひとは暗示に乗りやすいという点での問題があるのかもしれないけれども,とっぴな体験をしているという問題を抱えているわけではない。語った内容を重視したお話って結構多い。それは不思議で見世物的な興味をそそるし,とても面白い。でもそのお話は話し手の心理的体験というよりは聞き手の解釈や心情を単に反映しているだけなのかもしれないと思った。
まとまりがないけれど,インタビューとか談話を聞くときには聞き手がどんな人で,話し手,あるいは聞き手がどんな目的でそういう場を設けているのか,に注意しないといけないということを思った。